明治維新の悲劇「戊辰戦争」の少年部隊といえば会津若松の白虎隊が有名ですが、二本松城を守り戦った「二本松少年隊」の討死は白虎隊に劣らず悲壮で涙を誘います。 今回は「二本松少年隊」の縁の地を巡り、幕末に思いを馳せてみましょう。 二本松藩は新政府軍に対して徹底抗戦の構えを崩さず、薩長連合の猛攻撃を受けます。 二本松城の藩兵のほとんどが白河口に出撃していたため、藩では少年たちの「二本松を守りたい」との嘆願を受け、数えで13歳から17歳までの62人の少年隊を組織し、城を守らせました。 現在でいえば小・中学生、高校生でしかない彼らが激戦区の最前線で戦い、時には単独で敵の大軍の中に斬り込み、壮絶な戦死を遂げました。 この時に戦死した内の16人の少年たちは城主丹羽家の菩提所である「大隣寺」に静かに眠っています。 二本松少年隊の遺品も数多く収蔵されているので、是非見学したいスポットですね。 日本の名城100や日本の桜100選にも選ばれ、菊人形でも有名な二本松城(国指定史跡)は別名「霞ヶ城」といわれ、数々の旧跡や自然が楽しめます。 「日本三井戸」の一つ「日影の井戸」や樹齢三百年といわれている老松「傘松」。箕輪村(現在二本松市内)山王寺山のご神木を使った楼門「箕輪門」など見所が満載です。 また、箕輪門下の広場には少年隊士の像があり、まだ幼い少年たちが数百倍の敵に立ち向かう勇敢な姿が目を引きます。 少年隊のエピソードの中に、13歳の岡山篤次郎が出陣に際し「戦死した時に、その屍を探し易いようにするため」という理由から、所持品すべてに『二本松藩士 岡山篤次郎十三歳』と母に書いて貰い出陣したという話があります。 我が子の願いに胸が潰れる思いで応える母の姿が、少年隊士の像に寄り添うようにして建つ、我が子の出陣に藩主丹羽氏の家紋「直違紋(すじかいもん)」の肩印を縫い付ける母の像に重なります。 また、この地はかつて「千人溜」と呼ばれ、藩兵が集合する場所であり、少年隊士もここから出陣したといわれています。★二本松城(霞ヶ城)のマップは「こちら」をご覧ください。 二本松には高村光太郎が智恵子との純愛を綴った不朽の名作『智恵子抄』で有名な彫刻家高村光太郎の妻「智恵子」の生家があり、智恵子記念館として当時の姿そのままに復元され、智恵子の美しい紙絵や当時の女性としては珍しい油絵の作品、縁の品々が展示されています。 明治時代末期から大正時代にかけての数少ない女流洋画家「智恵子」が生まれ育ち、いつまでも愛してやまなかったふるさとをご覧ください。