このコースでは天誅組の本陣の置かれた五條市から高取城、そして無念の最後を遂げた東吉野へ、新国家を夢見た男たちの見果てぬ夢の跡をたどります。 幕末の1863年、日本のあちこちで尊皇攘夷が囁かれた中、孝明天皇が攘夷の大和行幸をするに先立ち、8月14日に甥である公家中山忠光・土佐脱藩吉村寅太郎・備前脱藩藤本鉄石・刈谷脱藩松本奎堂ら、約40名の同志が京都を出発、千早峠を越え、幕府の直轄地であった大和五條へ向かいます。8月17日、天誅組志士が挙兵し五條代官所を襲い、桜井寺を本陣として旗を揚げました。翌日、孝明天皇の行幸を待つ天誅組のもとに行幸中止の知らせが届きます。尊攘派のやり方に反発する薩摩藩と会津藩が行幸中止を断行し、わずか一日で天誅組は大義名分を失い、朝廷・幕府から逆賊として討伐を受ける側に立たされました。 天誅組総裁の吉村寅太郎は尊王攘夷派が今後世の中を動かすと判断し、「必ず幕府を倒す事が出来る。たとえ自分たちが敗れたとしても後に続くものがいる。自分達はその突破口となればよい」と考え徹底抗戦を決意します。 総勢100名程の天誅組に対し幕府側は約1万人を動員。天誅組は南に陣を移し十津川郷士に援軍を頼み、高取城に攻め込みますが敗退。その後も各所で24日間にわたって壮絶な戦いを繰り広げます。しかし9月14日、天ノ川辻の陣に総攻撃をかけられ、天誅組は命からがら十津川へ撤退、そして大峰山系を越えて下北山村へ、更に北へ逃れます。9月24日、東吉野の鷲家で待ち構えていた幕府軍により撃退。中山忠光は6人の隊士と共に大坂へ逃れることが出来ましたが、9月27日に吉村寅太郎が討たれたのを最後に、天誅組は壊滅しました。 彼らの抗戦は僅か40日で終わりましたが、人々の意識を大きく変えることとなり、明治維新が実現したのは、このわずか5年後のことでした。 天誅組の進路は五條→大塔→高取→下市→十津川→下北山→上北山→川上村→東吉野と、奈良県南部の険しい山々を越え、想像を絶する道のりです。車でも天誅組の進んだ道のりをたどるのは難しいので、このドライブコースでは天誅組の本陣の置かれた五條市から高取城跡を訪ねた後、途中吉野山温泉で一泊し、翌日に天誅組終焉の地、東吉野へ向かいます。 その後は東吉野の大自然の中であまご釣りや天然わらび採りなどをたっぷり楽しんでから帰路につきましょう。 尚、高取城址への観光ルートは山道となり非常に険しいため、事前に高取観光協会などで情報収集してからお出かけください。高取町の土佐街道では、季節ごとにさまざまなイベントが行われます。また、「町屋の雛めぐり」が開催され賑わいを見せます。また桜の時期の吉野周辺の道路は大変混雑し交通規制が実施されますので、時間配分にご注意ください。宿泊される方は早めにご予約ください。